■ドイツ軍で使用されたPPSh-41














1941年6月、ソビエトに侵攻したドイツ軍は同年から生産がスタートし配備されていた新型の短機関銃 PPSh-41の存在を知ることになる。首都モスクワの周辺まで一挙に攻め入ったドイツ軍は多くのPPSh-41を鹵獲した。

ドイツ兵からは大容量ドラムマガジン(装弾数71発)と高い発射速度による火力、故障が少なく過酷な状況下でも作動する信頼性の高さが評価され、前線の将官からはPPSh-41のコピー品製造を求める声まで上がった。これを受け、ドイツ陸軍兵器局ではPPSh-41のテストを実施した。この結果、ドラムマガジンは扱いにくく故障が多い、特に砂塵に対して弱く作動不良を起こす、レシーバーに使用されているスチール素材が柔らかく数百発程度の射撃で変形を引き起こし作動不良につながる可能性などを挙げている。MP40はマガジンの問題(マガジン内部で弾薬が詰まる)が解決していないが様々な対応策を検討しており、総じてMP40の方が信頼性が高いと結論を出している。これによりコピー品製造の要望は却下されたものの、依然としてドイツ兵の間では本銃に対する人気が高く、ドイツ軍の主力拳銃弾であった9×19mmパラベラム弾用に銃身を加工し、MP40のマガジンを使用できるようマガジンハウジングを改造したタイプも約1万挺製造されている。






バリケードの瓦礫の中にいる大尉がPPSh-41を持ち、前方の様子を伺っている。フロントサイトガードは取り外しが可能な初期型。スターリングラード攻防戦の写真として有名なこの1枚はベルリン報道写真本部が編集したプロパガンダ写真アルバム用。1942年10月、ソビエト連邦、スターリングラード。




写真キャプション「手榴弾と短機関銃が敵の抵抗を打ち破る。手榴弾が爆発して煙が上がる中、部屋が次々に掃討され、駅はソ連軍から奪還された。」

冬季迷彩服を着用した兵士の所属部隊は不明だが、PPSh-41を持つ兵士が2人、DP28軽機関銃が1人、奥の2名はブルーノZB26系と思われる機関銃を持っており、ドイツ軍小火器は見当たらない。1943年2月。






冬服を着た兵士が所持するPPSh-41はかなり使い込まれているのか黒染めの表面仕上げがほぼ摩耗し、金属地が露出しているように見える。1943年春、ソビエト連邦中央部。






SS旅団長、シーマナ少将の戦闘集団が背の高い草が生い茂る沼地に展開。中央の兵士はPPSh-41、後方の兵士もソビエトの半自動小銃 SVT-40を所持しているようだ。1943年夏、ソビエト連邦中部。






森の中で地面に横たわり、PPSh-41を構える第1コサック騎兵師団の兵士。PPSh-41は100~500mまでの照準調整が可能なタンジェント式リアサイトに着脱可能なフロントサイトカバー(写真では外れている)を持つ極初期型。1943年夏、ソビエト連邦。






一つ上で掲載した写真の続きで、被写体の兵士も同一人物と思われる。銃を構えているものの、ボルトが前進位置にあるため射撃はできない。1943年夏、ソビエト連邦。






破壊された家の陰に隠れ、PPSh-41を構える2名の兵士。冬季迷彩服を着用した「グロースドイッチュラント」師団の所属。1943年、ソビエト連邦中部、ビェルゴロド近郊。




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